【書評紹介】

シェイクスピア作品はなぜ時空を超えるのか―視覚的イメージによって構成されるシェイクスピアの世界

『図書新聞』2010年12月18日号掲載

田中一隆氏(弘前大学人文学部教授・英文学)

 本書の最大の特徴は、おびただしい数の絵画、写真、図版等の視覚的なイメージによって構成されている点にある。本書が「百科図鑑」と命名され、すべてオールカラーで印刷されていることにそれは端的に表れている。たとえば表紙。本書の表紙をご覧になった方は驚かれるかも知れないが、そこには、シェイクスピアといえばすぐに思い浮かぶ、あの禿げあがった顔のシェイクスピアの姿はない。そこには禿げる少し前の、たしかにシェイクスピアとよく似た人物の肖像画が掲げられている。じつはこの肖像画は、2009年にシェイクスピア・バースプレイス・トラストがシェイクスピア本人のものであると公表した肖像画だが、もともとはイギリスのコップ家が、シェイクスピアのパトロンとして有名なサウサンプトン伯ヘンリー・リズリーから継承したとされる肖像画で、本当にシェイクスピアの肖像画なのか、その真偽はまだ明らかになっていない。しかし、編者がそのことを十分承知のうえで、この新しい肖像画を本書の表紙に載せたのはきわめて新鮮で大胆な選択であった。それは、シェイクスピアの姿そのもののイメージも一新してしまったからである。

 主に本書のヴィジュアル的な側面に注目して、『ハムレット』の頁をめくってみよう。2008年のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーによる上演写真が一頁分ドンと配置されていることにまず驚くが、さらに、ロレンス・オリヴィエの映画(1948年)のハムレットと母親ガートルードのとても印象的な場面、1996年のケネス・ブラナーの『ハムレット』のハムレットとオフィーリア、1964年のロシア版『ハムレット』の墓堀人の場面、1990年のアメリカ映画『ハムレット』におけるローゼンクランツとギルデンスターン、1999年上演の、女性が演じるハムレットの一場面、そして何と、オフィーリア水死の場面を描いたミレーの有名な絵画までが引用されているのである。さらに、『間違いの喜劇』では、野村万作一座による2001年のロンドン公演(『間違いの狂言』)のシーンも読者の目に入ってくる。このような豊富な図版や写真を見事に配した編者の手腕に驚くのは、評者だけではないだろう。

 だが、本百科図鑑の取り柄はヴィジュアルな側面に限られない。登場人物一覧表と関係図に添えられた、短い、しかし的を射た「あらすじ」に加えて、本書にはじつに多くの情報が盛り込まれている。シェイクスピアの生涯、時代背景、シェイクスピアのことば(韻律とリズム、句読点、語彙など)、上演の歴史、テクスト、名場面からの台詞の引用、材源への言及だけでなく、それらの情報には、作品解釈の問題点等も含まれている。具体例を見てみよう。『ヴェニスの商人』の頁をめくると、ヴェネツィアを描いた、ヴィットーレ・カルパッチョの絵画や、2004年の映画(アル・パチーノがシャイロック役を演じている)の場面の間にひっそりと触れられているのは、「愛」の主題の解説である。この劇が、ユダヤ人という(今日では人種や宗教の問題ともからむ)微妙なテーマを扱っていると同時に、解釈上もさまざまな問題点をはらんでいる「問題劇」の一つとも言われているのは、それが「愛」の主題を扱っているからである。この「愛」の主題は、一組の男女が一人の男を取り合うことをめぐって展開する。最終的にはこの恋(?)のもつれが解消されなければ喜劇として終わらないので、『ヴェニスの商人』には、余計とも思われるような「指輪のエピソード」(第五幕)が添えられているのだが、本書はそのことにも目配りのきいた解説がある。

 シェイクスピアの人物と作品に関する事・辞典類は、本邦においてもいくつか存在する。代表的なものは、高橋康也・大場建治・喜志哲雄・村上淑郎編著『研究社シェイクスピア辞典』(研究社、2000年)と荒井良雄・大場建治・川崎淳之助編著『シェイクスピア大事典』(日本図書センター、2002年)。これらはみな日本人の編者によって編まれたもので、執筆者も日本の専門家であるが、これまでの類書と異なる本書の特徴は、本書が翻訳書であることによる。この百科図鑑は、シドニーのマクオーリー大学英文学教授A・D・カズンズ監修によるThe Shakespear Encyclopedia:The Complete Guide to the Man and his Worksの日本語訳で、監訳は荒木正純・白百合女子大学教授と、田口孝夫・大妻女子大学教授が担当されている。監訳者たちの配慮が行きとどいているからであろうが、訳文もこなれていて読みやすい。

 本書の第一章のタイトルは「時空を超えるシェイクスピア」であり、シェイクスピアがなぜ時空を超えるのか(本訳書の存在理由も部分的にはこのような現実に依っている)について、本書は二つの理由を挙げる。一つは、シェイクスピア作品の世界的拡大は近代の植民地政策がもたらした現象であり、シェイクスピアは、征服者である西欧の知的・文化的な慣例や価値観を、植民地に植え付けるために利用されたと考える立場である。もう一つは、シェイクスピアのことばと作品が本質的に時空を超越し、普遍的であるからだと考える。本書はこの二つの立場のうちのどちらにも与しないで、シェイクスピアという世界的な現象の理由を「この両陣営のどこかに位置する」としているが、評者は後者の立場を採りたいと思う。なぜならば、いま日本の大学では、シェイクスピアと彼の英語文化の伝統は、大学で学ぶべき知としての存在意義を失いかけているからである。

(※掲載許諾済)